top of page

​次世代ブログ

殺人はダメなのか?法の限界と人間としての根源的本質

執筆者の写真: RentaRenta

現代の法体系では、殺人や暴力は明確に禁止され、個々の命の尊厳を守るために厳罰化されている。しかし実態として、社会には格差や不平等、不均衡、不公正が蔓延しており、法を守る人々が搾取や抑圧に苦しむ現実があったり、人を多く殺した人間が英雄視される時代もあった。


こうした現実化では、単に「殺人はダメ」という法的な枠組みだけでは到底説得力がなく、理解に苦しむ人もいるだろう。実際、平和で安全な国日本でも殺人は毎日のように起きるし、「殺したい」ほど憎んだり怒りを覚えたことぐらい、誰だってあるのではないだろうか?



破壊神シヴァと殺戮の女神カーリーの荘厳なビジュアル
破壊神シヴァと殺戮の女神カーリー


目次


1. 社会的現実と倫理のジレンマ

歴史的に見ても、戦争や紛争の中で、敵対勢力との血なまぐさい戦い(いわゆる破壊や殺人)が「英雄的」な行為として語られることも珍しくない。だがこれは単に「殺すこと」が正当化されるのではなく、当時の社会では生存や国家の存続、あるいは大義のために、個々の犠牲を超えた全体の利益が優先された結果と言える。例えば、戦国時代の武士は自らの名誉や忠誠心、あるいは血筋や国家を守るために戦い、多くの犠牲を払って国を守ったとされ、その姿勢は「武士道」や「侍道」などとして後世にも称賛されている。

また、神話や宗教の世界でも、破壊神シヴァや殺戮の女神カーリーといった神は、破壊によって新たな創造の余地を生み出すとされ、単なる「殺人」ではなく宇宙の循環や再生のための必要な力として捉えられる。こうした視点は、倫理を単に法的な枠組みだけで評価するのではなく、社会全体や自然の摂理に基づく「根源的な正当性」を論じる場合に現れる。


2. 現実の不正義と法の限界

現代社会においては、制度や法律が必ずしも現実の不正義を完全にカバーしていない側面が当たり前に存在する。例えば、経済的に弱い立場の人々や社会のルールに適合できずに置かれる人々は、システム上の支援を受けられず、むしろ不利益を被るケースが多い。こうした現実では、法の外側で個々の人間が不当な扱いを受けることが少なくなく、また、密かに行われる殺人や暴力、あるいは抑圧的な権力行使が隠蔽されることもある。

このような世界の下で、ある種の哲学者や思想家は、「破壊によって旧体制を打破し、新たな秩序を作り出す」行為に、根源的な正当性があると論じる。これは、単に「殺すこと」が正しいというよりは、現在の不公正な秩序を変革するための手段として、暴力が避けられない局面も存在するという視点だ。もちろん、この立場は極めて議論の余地があるものであり、多くの倫理学者や法学者は非暴力の解決策を模索すべきだと主張する。一方で、対話だけで解決する問題など問題とはいえず、机上の空論を述べる理想家とも批判できる。


3. 倫理と法の間に横たわるグレーゾーン

最終的には、現代法が「殺人」を絶対に許さないと規定している一方で、実際の人間社会では正義や倫理、あるいは大義、そして社会的現実が常に単純な二元論では語れない複雑さを持っているのは確かだ。格差や不平等、抑圧が深刻な状況下で、法が必ずしも全ての正義を実現しているわけではないという現実が、倫理的ジレンマを生み出している。


つまり、法の枠組み外で行われる一部の破壊行為や、権力に対する抵抗が、広い意味での「再生」や「新たな創造」の契機となる可能性も否定できないと論じる思想も存在する。例えば歴史において革命や反乱は、多くの犠牲を払ったものの、結果として旧体制を打破し新たな社会体制を生み出す原動力となった。これが「英雄視される」背景とも言える。現代においても、制度の矛盾や不平等が強まれば、個々の倫理判断や価値観に基づいた行動が、法の枠を超えた正当性を帯びることがあるというのは、厳しい現実を反映しているとも解釈でる。


東京の屋上で法では裁けない悪に立ち向かうダークヒーローの姿

  1. まとめ

現代の法体系は、個々の命の尊厳や社会秩序を守るために殺人や暴力を厳格に禁じている。しかし、現実の社会は決して正当あるいは理想通りに動いているわけではない。歴史や神話に見ると、戦争や革命、さらには神々の世界においては、破壊や殺戮が場合によっては新たな創造や秩序の再構築のための手段、若しくは「大義」という名目の名の下、英雄視されることさえあった。


我々が目の当たりにするのは、法の枠組みが完璧ではなく、格差や不平等、抑圧によって最も弱い立場の人々が犠牲になっている現実だ。そうした中で、単に「殺人はダメ」と断じるだけでは、時に絶望的な不正義や苦しみを解消できないというジレンマも存在する。

結局のところ、法は社会全体の秩序と個々の権利保護を目的としている一方で、歴史的・文化的文脈においては、破壊や殺人が新たな再生を促す可能性も理論上は否定できない。倫理や正義の捉え方は時代や文脈、そして個人の価値観によって大きく変わるため、「殺人は絶対にダメ」と一律に決めつけることの難しさも浮かび上がる。


つまり、現代社会における殺人や暴力の禁止は、単に個々の行為を裁くだけでなく、社会全体の安定と安全を守るための最低限のルールである。しかしその裏側では、格差や不公正に対する怒り、そして革命を求める声もまた存在し、場合によっては暴力的な手段が一部の人々にとっては正当化・正義化されるという複雑な倫理的ジレンマがある。


このように、法と倫理、そして現実の間には単純な二元論では決して語れない複雑さが横たわっている。我々は絶対的正義を法に求める一方で、その法が全ての不正義や苦しみを取り除けない現実にも向き合わなければならない時が来たのではないだろうか?


答えは一つではなく、時代や状況、そして個々人の視点によって異なる「真実」が存在するのだと言えるだろう。

Opmerkingen


bottom of page